このブログの目的
ブログを読んでいただきありがとうございます。このブログでは子どもたちが「言葉の力」をどのように身に付けるか、これまでのビジネス経験や教職経験をもとにした、私自身の実践や考えを紹介していきます。90年代初めに新卒で日本の銀行に就職し、紆余曲折があり今は小学校の教師をしています。将来的には家庭教師や塾を開くことを目標としています。よろしくお願いいたします。
教師という仕事について思っていたこと
私の学生時代は校内暴力が当たり前で、教室に竹刀を常備する先生もいる時代でした。中学生のときには先生に「歯を食いしばれ!」と顔をグーで殴られるなど、今では考えられないような軍隊式の指導がまかり通っていました。そんなこともあり、学生時代そして社会人になってからも、実は教師は一番なりたくない職業でした。
体罰指導全盛の中学・高校時代とは対照的に、小学校時代はとても良い思い出として残っており、それが小学校の教師になった理由の1つです。週末には先生も一緒に山登りやサイクリングをするような、のどかな時代でした。担任の先生はいつもガリ版で手間をかけてクラスの作文集を作ってくれるような方で、文章を書くことが楽しいと思えるようになったのは、間違いなくその先生のおかげです。
海外勤務への憧れと英語力のなさ
小学生の頃は「ドリトル先生シリーズ」が好きで繰り返し読んでいました。本の影響でいつか自分も海外に出て、いろいろな世界を見てみたいと夢見ていました。それもあり、大学生になり就職活動を始めたときも、頭の中には「海外で働きたい」という思いが強くありました。実は教師のほかに銀行員も「なんかつまらなそう」という理由でなりたくない職業の一つだったのですが、自分の思いを実現する方法についていろいろと考えた結果、日本のとある銀行に就職することにしました。銀行では希望どおり海外赴任をすることができ、予想以上にエキサイティングな経験になった銀行員生活でした。
海外赴任は20代に香港へ。ちょうどイギリスから中国に返還される時期でした。ディーリングルームの隔離された部屋の中で、現地スタッフ4人に対して日本人が自分1人という状況でしたが、とにかく拙い英語で必死にコミュニケーションをとって仕事をしていました。香港勤務前はTOEICでいうと660点くらいの英語のレベルで、今思えばよく海外赴任をさせてくれたなと思います。
激動の金融危機を乗り越える
当時の日本の金融機関を取り巻く環境は、まさに激動の時代でした。日本の銀行の不良債権問題からの金融危機で山一證券が倒産し、銀行が次々と吸収合併や統合されていく時代です。当時勤務していた銀行もジャパンプレミアムという、邦銀に課される特別なプレミアムを払わないと資金調達ができない状況でした。さらにアジア通貨危機という金融環境の変化もあり、海外拠点で財務部門を担当していた私にとっては毎日がエキサイティング、別の言葉でいえば修羅場でした。
仕事は修羅場続きでしたが現地での生活はとても楽しく、駐在員生活を満喫しました。現地の英会話教室で知り合った香港人の友人とは今でも仲良くさせてもらっています。仕事上で必要だったことと、新しくできた現地の友人ともっとコミュニケーションをとりたい、という思いが英語力を高めてくれたのだと思います。試験は受けていないのですが、3年間の駐在を経て帰国する頃にはTOEICで800点台後半レベルだったのではないかと思います。その後外資系企業に転職したこともあり、TOEIC950点ぐらいになりました。
最初の転職とプロジェクト
当時は日本の金融機関の海外拠点縮小が多く、当時勤めていた銀行も同じように海外拠点を縮小傾向でした。このままこの会社にいても、再び海外勤務をすることができなさそうなこと、そして自分の力をさらに試してみたいという思いから、帰国から1年後イギリス系の銀行へ転職しました。30歳、子どもが生まれたばかりの時期でした。転職先ではディーリングルームを立ち上げるプロジェクトが進行中で、その体制整備を任されました。最初は6畳ほどの小さなディーリングルームが、ビジネスの軌道に乗ってどんどん大きくなっていく過程は、ベンチャー企業でスタートアップを経験するようでした。今でもプロジェクトベースの学びを大事にしているのはこの時の経験がきっかけです。1人ひとりが強みを持ち寄って大きなプロジェクトに取り組む過程で様々な課題を解決していく。その中で自分自身も力を付けていった実感が今の仕事に活きていると思います。
悔しい思いをしたシンガポール研修から学んだ子どもの気持ち
ここでの経験で最も印象に残っているのは、シンガポールでのマネジメント研修です。世界各国から集まった50人ほどのマネージャーたちと10日間、グループで課題を解決する研修があったのですが、私は完全に「おみそ」でした。グループでのワークショップが中心の研修でしたが、当時の私の英語力では課題についての講師の説明から理解できず、課題解決のためのグループでの話し合いには入れず、食事時間の英会話もついていけず、とにかく苦しい10日間だったのを覚えています。グループでは各国から来た同僚がいましたが、だんだんと私以外でグループワークを進めていく雰囲気が出来ていました。このときの悔しい経験は小学校教師になった今でも、グループでのワークショップなどをする際に子ども理解の上でとても役立っていると感じています。
アメリカ同時多発テロ事件
教師になろうと思ったきっかけの1つとして、2001年9月11日に起こったアメリカ同時多発テロ事件があります。香港勤務時代の尊敬する先輩方がこの事件の犠牲になりました。転職する際に送別会を開いてくれて、「お前ならどこでもやっていけるよ」と励ましてくれた先輩方でした。その言葉は、当時の私にとって大きな支えとなり、小学校教師を志した際にも、私の背中を押してくれた大切な言葉です。大切な先輩を失ってしばらく精神的にも落ち込む時期が続きました。その時に考えたことは「先輩たちの分まで、ちゃんと生きなければならない」という思いでした。この事件からすぐに小学校の教師になろうと思ったわけではありませんが、自分の生き方を定期的に問い直すきっかけとなったのは確かでした。
幼稚園の園長先生との出会い
「なぜ教師になったのか」という理由のもう一つに、自分自身の子育て経験があります。特に、子どもが通っていた幼稚園の園長先生との出会いは、教育という仕事への関心を強めた大きなきっかけでした。園長先生は、学生時代から貯めたお金で少しずつ土地を買い、手作りの幼稚園を創り上げた方でした。私の子どもたちも、そんな園長先生の幼稚園の森でのびのびと育っていきました。
園長先生は毎朝、暑い日も寒い日も、雨の日も雪の日も、膝をついて笑顔で園児たちを迎えていました。幼稚園には柿やびわなど様々な実がなる木が植わっていて、庭にはヤギやチャボがいました。園児たちは季節の移り変わりを五感いっぱいに感じながら過ごしていました。生活から感じ取ったことを劇にしたり、歌にしたりして学びに繋げていました。特に園児たちの歌を聴くと、上手いとか下手だとかを超越した力を感じて感動しました。「教育の仕事ってすごい」と心の底から思ったのは、このときだったと思います。
子どもたちが活動しながら学ぶ授業スタイルを追究しているのも、このときの生活に根差した園長先生の教育の影響を大きく受けていると思います。自分の子どもたちがいきいきと過ごす学びの場を、いつか自分自身の手で作ってみたい。その思いは、今でも持ち続けています。
それから数年後、小学校教諭の免許を取り、教員採用試験を受け、小学校教師となり今に至っています。いつか自分自身で学びの場を作ってみたいという目標に向けて、探究的な学びを通して子どもたちに言葉の力をつける実践を重ね、力をつけていきたいと考えています。
2度目の転職と通信教育開始
2回目の転職は米系の不動産金融会社です。当時の不動産業界はプチバブルの様相を呈しており、イケイケどんどんの状況でビジネスが拡大していく中、フィリピンペソの資金調達のために現地に赴いて現地の銀行と交渉し、英文契約書の交渉まで全て自分で担当するなど、自分のビジネススキルが上がっていくのを実感しました。
このときも新規案件ごとに営業、審査、税務、法務、会計、財務と各部署からのプロフェッショナルが集結してプロジェクトを進めていくのがとても楽しく、プロジェクトベースの学びを作ることを大事にしている今に繋がっています。転職して数年後、金融業界を揺るがせたサブプライムローン問題が起こりました。新規案件は凍結、財務担当者として資金調達に奔走した日々でした。その中で今後の身の処し方についても考えるようになり、その中で教育の仕事に携わりたいと強く思うようになりました。
まずは通信制の大学で小学校の教員免許を取得することにしました。仕事をしながら定期的にレポートを提出し、スクーリングに参加するのは大変でしたが、もう一度大学に入って学びなおすという経験はとても楽しいものでした。1か月間の教育実習が大きなハードルで、それほど長い期間仕事の休暇をとるのは難しい状況でしたが、当時の上司や同僚の理解もあり、無事実習に参加することができました。
教育実習と採用試験
教育実習をさせて頂いたのは小学校4年生のクラスでした。体育館で100人を超える児童に指示を出している若い先生を見て、自分にはとてもできないと思ったのを覚えています。今では当たり前のようにできており、何ごとも挑戦、経験だなと実感しています。実習最後の日にはクラスの子どもたちが泣いて別れを告げてくれました。子どもたちとの関わりを通して心が動く瞬間が多々あるのが、教師の仕事のやりがいだと感じました。その後、特別支援教育の免許も取得し教員採用試験に挑みました。当時はピアノや体育の実技試験もあり、仕事をしながらの採用試験準備は大変でしたが、無事に合格することができました。
家族への感謝
小学校教諭になるという決断は正直簡単なものではありませんでした。家族には自分の生き方の巻き添えにしてしまったところもあり、申し訳なさも感じています。ここまで支えてくれた家族には、感謝しかありません。実際に教壇に立つ前に、現役の先生方に授業を見せてもらったり、民間のセミナーに参加したりと、自分なりに準備を進めました。いざ学級担任として仕事を始めてみると、その大変さは予想をはるかに上回るものでしたが、子どもたちの成長を近くで支え、見守ること仕事にとてもやりがいを感じています。
教師として働き始めて、改めて探究的な学びの力と、それを通した言葉の力の育成の大切さを実感するようになりました。それについては次回以降で書いていきたいと思います。
コメント