【次期学習指導要領】「基礎が先か、探究が先か」論争に終止符を。私たち教師が「子供の邪魔」をしないために今できること

はじめに:また「振り子」が戻ってきたのか?

中央教育審議会(中教審)での議論を見聞きし、次期学習指導要領の足音が近づくにつれ、教育現場にはある種の「既視感」と「諦念」が入り混じった空気が漂っていないでしょうか。

「教育課程の柔軟化」 「各学校の裁量による特色ある教育」

これらの方針を聞いて、「ああ、またゆとり教育の時と同じだ。振り子が右から左へ振れただけだ」と、どこか冷めた目で見ている先生方も少なくないはずです。「現場は混乱するだけだ」「結局、今まで通りしっかり教科書を教え込み、基礎学力をつけることが子供のためだ」――そう心に決め、外部の風をシャットアウトしようとする姿勢。それは、多忙を極める現場においては、ある種の自己防衛本能として理解できるものです。

しかし、今回の変化は、かつての「ゆとり」への揺り戻しとは決定的に異なる背景を持っています。私たちは今、単なる制度変更ではなく、「学びのOS(オペレーティングシステム)」の書き換えを迫られているのです。

本記事では、現場のリアルな感覚を大切にしつつ、なぜ今「探究」なのか、そして「自己調整学習」という難題にどう向き合えばいいのか、思考を整理していきたいと思います。


1. なぜ「変わらざるを得ない」のか? 外圧としての入試改革

まず、冷めた見方をしている現場の先生方にこそ直視していただきたいのが、「出口」の変化です。これまで日本の教育を変えてきたのは、常に「入試」という強力な外圧でした。

現在、大学入試において一般選抜(旧来のペーパーテスト一発勝負)の比率は年々下がり、総合型選抜(旧AO入試)や学校推薦型選抜へのシフトが急速に進んでいます。高校入試においても、まだ大きな変化は見られないものの、この波が波及するのは時間の問題でしょう。

かつてのように「知識の量」と「処理速度」を競うゲームは、終わりを迎えつつあります。AIが台頭する現代において、知識をどれだけ溜め込んでいるかは、もはや人間の価値を測る主要な指標ではありません。

いくら現場が「今まで通り」を貫こうとしても、社会が、そして入試制度が、「問いを立てる力」「協働して解決する力」を求め始めている以上、教育課程の柔軟化は避けて通れない道なのです。

教育委員会の「壁」と学校の「裁量」

ここで一つ懸念されるのが、日本の公教育における構造的な課題です。「学校ごとの裁量」と言いつつも、実際には教育委員会(および文部科学省)のグリップが依然として強力であるという現実です。

アメリカのチャータースクールのように、個々の学校が本当の意味で独立したカリキュラムを持つことは、日本ではまだ難しいかもしれません。しかし、だからといって「どうせ教育委員会の言う通りにするだけだ」と思考停止してはいけません。制度の枠組みの中で、いかに目の前の子供たちに最適な「余白」を作り出せるか。それが、これからの管理職やミドルリーダーの腕の見せ所になってくるでしょう。


2. 「基礎が先か、探究が先か」という不毛な議論

初等教育(小学校)の現場でよく耳にする議論があります。

「探究学習なんて早い。小学生はまず、読み書き計算といった基礎的な知識・技能(土台)を身につけるべきだ。探究は、基礎が固まった中等・高等教育からでいい」

一見、理にかなっているように聞こえるこの主張。しかし、私はこれに断固として**「NO」**を突きつけたいと思います。

子供は「知る」ことの喜びを知っている

日々、小学生と対峙している先生ならお分かりでしょう。子供たちは本来、学ぶことが大好きな生き物です。新しいことを知った時、できなかったことができるようになった時、彼らの瞳は驚くほど輝きます。

「なぜ?」「どうして?」

この純粋な問いこそが、学びの原動力です。それを「今はまだ早い」「まずはこれを覚えなさい」と大人の都合で封じ込め、6年間ひたすら受動的な知識注入を続けたらどうなるでしょうか。

「問い」の枯渇が招く未来

中学校に入った途端、「さあ、ここからは自由に問いを立てて探究しなさい」と言われて、すぐに動き出せる生徒がどれだけいるでしょうか。長年「受け身」の姿勢を刷り込まれた子供たちは、急にハシゴを外されたような感覚に陥ります。

「先生、何をすればいいですか?」 「正解は何ですか?」

そうやって指示を待つだけの人間を育ててしまったのは、他ならぬ私たち大人の「基礎が先」という思い込みかもしれません。高度経済成長期のように、同じビジネスモデルで量をこなせば豊かになれた時代は終わりました。これからは、イノベーションを生み出し、ウェルビーイング(身体的・精神的・社会的に満たされた状態)を追求し、環境問題などの正解のない課題に挑む時代です。

初等教育だからこそ、純粋な知的好奇心を殺さず、「探究の根っこ」を育てなければならないのです。


3. 難題としての「自己調整学習」

ここで、文部科学省が重要視しているキーワード**「自己調整学習(Self-Regulated Learning)」**について触れておきましょう。

【用語解説:自己調整学習】 学習者が自分自身の学習プロセスに対して能動的に関与し、目標を設定し、学習方略(どう学ぶか)を選択・実行し、その結果をモニタリング(自己評価)して、次の学習に活かすサイクルのこと。簡単に言えば「学びのPDCAを自分で回すこと」です。

これは口で言うほど簡単なことではありません。大人でも難しいこのプロセスを、小学生に求めるのは酷ではないか、という意見ももっともです。

メタ認知の壁

自己調整学習を成立させるには、高度な**「メタ認知能力(自分の認知活動を客観的に捉える力)」**が必要です。 「自分は何がわかっていないのか」 「この問題を解決するには、どの情報を集めればいいのか」 「今のやり方は自分に合っているのか」

小学1年生にこれを完璧に求めるのは無理があります。6年生であっても、個人差は非常に大きいのが実態です。公立学校であればなおさら、家庭環境や発達段階の異なる子供たちが一堂に会しており、一律に「自己調整しなさい」と放り投げるのは、教育の放棄にもなりかねません。

教師の役割:教えることと、待つことのバランス

だからこそ、教師の高度な専門性が求められます。「自己調整学習」=「放置」ではありません。

  • 最低限の知識・技能(OS)は、プロとしてしっかり教える(Instruction)。
  • その知識を使って、子供が自ら問いを立て、学ぶ場面では、あえて手出しをせずに見守る(Facilitation)。

この「教え込み」と「探究」のバランスを、子供の実態に合わせて絶妙にチューニングすること。これこそが、これからの教師に求められる最大のスキルです。


4. 私たちが目指すべき「スパーキング」な存在

結局のところ、私たち教育者にできることは何でしょうか。

それは、**「子供の邪魔をしない」**ということに尽きるのかもしれません。 子供が本来持っている「知りたい」「やってみたい」というエネルギー。それが噴出する瞬間を、大人の都合やカリキュラムの遅れを気にして踏み潰してはいけません。

スパーク(Spark)する瞬間を創る

私は、子供の学びへの意欲が**「スパーク(発火)」**する瞬間を支える存在でありたいと願っています。

  • 探究的な学びへの橋渡しをする。
  • 子供の興味関心と、社会や教科の内容を結びつける。
  • 「それ、面白いね!」と共感し、背中を押す。

究極を言えば、子供のことを一番よく知っている保護者の方々こそが、最強のサポーターになり得ます。しかし、私たち教育関係者は「外部の人間」だからこそできる、客観的かつ専門的なアプローチで、そのスパークを誘発できるはずです。

社会情動的コンピテンシーの育成

最後に、これからの学びに不可欠な**「社会情動的コンピテンシー(Social and Emotional Competency)」**についても触れておきます。

【用語解説:社会情動的コンピテンシー】 感情を理解・調整し、他者に共感し、良好な人間関係を築き、責任ある意思決定を行う能力のこと。いわゆる「非認知能力」の中核をなすもので、偏差値では測れない力です。

探究学習において、他者と協働し、対話を通じて新しい解を見つけ出すプロセスは、まさにこのコンピテンシーを育む場でもあります。AIには代替できない、人間ならではの「心の知能指数」を高めることこそが、未来を生き抜くための最強の武器となるでしょう。


おわりに:次の一歩へ

教育の変化は、いつも現場に負荷をかけます。 「また仕事が増えるのか」とため息をつきたくなる気持ちも痛いほどわかります。

しかし、視点を少し変えてみてください。 「教えなければならない」という呪縛から解放され、子供たちと共に「問い」を楽しむ。そんな本来の学びの姿を取り戻すチャンスが、今来ているのだと。

全ての子供が自己調整学習を完璧にできなくてもいい。 まずは、教室の中でたった一人でも、何かの問いに目を輝かせ、夢中で調べ始める子供が現れたら、それを全力で面白がってみることから始めませんか?

その小さな「スパーク」が、やがて日本の教育全体を照らす大きな光になると信じて。

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