前回は生まれた初めて旅をした韓国での経験をお伝えしました。小学校のときに読んだドリトル先生シリーズを読んで「いろんな世界をみてみたい」と思ったのがきっかけでした。
自己紹介でも少し書きましたが、「人はなぜ存在しているのか」というのが小学校のときから不思議でした。小学生だった私は、まだ多くの情報を知らないまま「これが真理だ」というものを、疑問をもたずに信じることはできない子どもでした。
そういう背景もあり、様々な価値観や文化に触れ、この目で見て、この肌で感じ、その上で自分なりの判断を下したいという思いがありました。大学生のから海外の様々な価値感や文化に触れる機会を積極的にもつようにしていました。
今、あの頃から40年近くの時が経ち、その問いに対する「答えが見つかったのか?」と問われれば、まだ明確な答えは見えていません。しかし「自分が行動すること」は大切にして生きていきたいと思っています。
具体的に今、最も大事にしている行動とは、「未来ある子どもたちのために、何かしらの価値を提供すること」です。大きなインパクトは与えられませんが、微力ながら行動していきたいと思っています。
さて、旅の話に戻ります。韓国旅行の半年後、タイに向かいました。
アジアを巡る旅:タイ編
大学生の2月は受験休みがあり、比較的長い春休みがありました。当時の日本はバブル経済の真っ只中。アルバイトの機会は豊富にあり、土方や力仕事のアルバイトを1週間ほど頑張れば、海外旅行に行けるくらいのまとまったお金を稼ぐことができました。今思えば、本当に恵まれた、幸せな時代だったとつくづく感じます。
そうして稼いだお金を元手に約3週間、アジアの国々を巡る旅に出ました。当時はまだ物価が非常に安かったため、アジアの国々であれば、それほど費用をかけずに長期滞在が可能でした。ホテルに泊まるのではなく、一泊1000円程度の「ドミトリー」(相部屋の安宿)を利用し、文字通り「旅人」として各地を転々としました。
次に私が訪れたのはタイです。なぜタイを選んだのかは、正直なところ、物価の安さが一番の理由だったと思います。一泊1000円程度の宿に泊まり、屋台で一食100円〜200円程度の食事をしていれば、3週間の滞在費用は、東京で1ヶ月生活するのとほとんど変わらないくらいでした。飛行機代を含めても、東京での生活費とさほど変わらなかった記憶があります。
タイの旅でも、また新たなカルチャーショックが私を待ち受けていました。 私がバンコクで滞在したのは、カオサンロードという安宿街です。そこには、ヨーロッパやアメリカなど世界各国から来たバックパッカーが多く集まっていましたが、中にはいわゆる「不良外国人」というか、少し危なげな雰囲気の人々も少なくありませんでした。正直なところ、少し危険な雰囲気も漂っていましたね。
しかし、そんな場所でも、旅人同士の出会いはたくさんありました。同じドミトリーに泊まっていた日本人旅行者と仲良くなり、一緒に観光したり、情報交換をしたりして過ごしました。約3週間の滞在は、そのドミトリーの仲間たちと深く交流する時間でもありました。
タイでの文化の違いで印象的だったのは、女性が非常に熱心に働いている姿でした。露店や市場では多くの女性が商売をしており、活気にあふれていました。一方で、男性は道端の隅で将棋を指している姿をよく見かけました。当時の私には、南の国では女性の方が勤勉に働く傾向があるように見え、国民性の違いを肌で感じた経験の一つです。今思えば、これは私の偏見だったかもしれませんが、当時の私には鮮烈な印象として残っています。
微笑みの国での大失敗:文化理解の重要性
タイは「微笑みの国」と呼ばれるほど、人々は穏やかで親切です。私もその柔らかな物腰と笑顔に癒やされていました。しかし、この旅である大きな失敗をしてしまいました。
タイの文化では、「頭は神聖な場所」とされており、たとえ冗談であっても、他人の頭を気軽に触ることは、非常に大きな侮辱にあたるとされています。当時の私は、そんな文化的な背景を全く知りませんでした。
ある時、道端の店先で、20代半ばくらいの屈強なムエタイ選手のような体格のお兄さんが、私に冗談を言ってきました。私は関西人なので、つい「何言ってんねん!」というノリで、彼の頭をポンと叩いてしまったのです。
その瞬間、彼の表情は激変しました。みるみるうちに怒りで顔が紅潮し、本当に殺されるかと思うほどでした。周りにいた大人たちも何事かと集まってきて、緊迫した空気に包まれました。私は慌ててタイ語で謝り、なんとか許してもらいました。
この経験は、私にとって強烈な学びとなりました。相手の文化や価値観を理解し、尊重することが、国際的な交流においていかに重要であるかを、身をもって痛感した瞬間でした。自分にとっては些細なことでも、相手にとっては深い侮辱になることがある。失敗体験から大きな教訓を得ることができました。
旅人としての感じた日本人のよさ
当時のアジアには、沢木耕太郎さんの「深夜特急」などを読んでアジア一人旅に憧れ、世界を放浪する「旅人」たちがたくさんいました。日本でアルバイトをしてお金を貯め、アジアや中東、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカと、各地を転々とする。当時はまだ円も強かったため、比較的容易に海外を旅することができたのです。
しかし旅を続ける中で 「旅人」としてその国を訪れることと、「その国で生活する」ことは、全く異なるという当たり前のことに気付きました。旅人は、ある意味「お客様」としてその国に滞在させてもらっている立場です。その国の住民が抱える日々の生活の苦労や現実を知らずに、たかが数週間の滞在で「その国を分かった気になる」のは違う、と感じるようになりました。
当時、タイなどで出会った一部の日本人旅行者の中には、日本の金で遊んでいるくせに、現地の人を馬鹿にしたり、上から目線で語ったりする人もいましたが、ほとんどの日本人は礼儀正しく、現地でも対日感情は悪くなかったと思います。対日感情というのは歴史的な背景だけではなく、こういった草の根の交流の積み重ねによるものだと思います。
カルチャーショックが大きかったインドの旅
タイの旅を終えた私はかねてから行ってみたかった国、インドへ旅立ちました。 「インドに行く人間は二種類しかいない」という言葉を聞いたことがありました。一つは「もう二度と行きたくない」というタイプ。もう一つは「インドに完全にハマり、何度も訪れたくなる」というタイプ。自分がどちらになるのか興味もありました。
私が訪れたのは、当時の「カルカッタ」(現在のコルカタ)です。南インド方面へ向かおうと思い立ちました。 カルカッタで特に印象的だったのは、屋台で売られている果物ジュースの美味しさでした。その場で絞ってくれるオレンジジュースや、刀でココナッツの実を切り開いてストローを刺してくれるココナッツジュースの味は、忘れられないほどでした。
しかし、その一方で、「水が飲めない」というカルチャーショックもありました。日本では蛇口をひねれば当たり前のように水が出ますが、インドでは水は買うもの。当時は日本でミネラルウォーターを日常的に買う習慣がなかったので、水が売られていることにまず驚きました。そして、水道水を飲むことができないという現実に直面し、いかに自分が恵まれた環境にいるかを痛感しました。
カルカッタは雨季だったこともあり、雨が降ると下水設備が整っていないため、膝上まで水が溜まることもありました。そんな中、世界中から集まったバックパッカーやヒッピーたちが集まるゲストハウス(ドミトリー)に泊まりました。一泊500円ほどの安宿です。夜になると、なぜか日本人旅行者たちが集まって「講演会」のようなものが始まり、ギターを弾きながら吉田拓郎の歌を歌う光景など、不思議な空間でした。現地の人々の生活に深く入り込むというよりは、インドという国を訪れた旅人同士が交流する場、という印象でした。
当時からインドでは、小さな子どもたちが「シャープペンシル、プリーズ!」と言いながら近づいてくる光景がありました。また、タクシーに乗ってもメーターがなく、事前に料金交渉が必要でした。店に行けば、日本人だと分かると平気で10倍くらいの値段をふっかけてくるので、必死に値切る交渉術が求められました。100円のものが1000円と言われ、50円から交渉を始めても、結局300円くらいで買わされたりすることも。このような交渉文化は、当時の私には驚きでしたが、世界的にはこの方が当たり前なのかもしれません。
今思い出すと、他にも数々の失敗談があります。 例えば、現地の人が着ていたシルクの衣と、私が着ていたポロシャツを交換しないかと持ちかけられ、快く交換したところ、実はシルクでも何でもない安物の衣だった、ということもありました。本当に「自分はバカだな」と苦笑するばかりです。こういった失敗談は40年近く経った今でも鮮明に覚えているので、体験的な学びというのはやはり大切だなと改めて思います。
旅の失敗談:衛生観念とコーラの経験
インドでは、右手は清浄な手、左手は不浄な手とされています。そのため、現地のトイレにはトイレットペーパーがなく、泥のような水が溜まった桶で左手を使って用を足す習慣がありました。最初は戸惑いましたが、一ヶ月もインドにいると、むしろ紙よりも水で洗った方が清潔だと感じるようになっていきます。
コーラに関する失敗談もあります。 道端の店で瓶のコーラを買ったのですが、その瓶の飲み口にサビがついていました。「サビがついてるよ」と店員のおじさんに伝えると、店員のおじさんは、少し面倒くさそうな顔した後、飲み口のサビを左手拭いて「はいよ」と渡してきたのです。左手は不浄の手…。さすがにそれは飲めませんでした。
誕生日とストライキ、そして人生の出会い
私の誕生日は8月なのですが、ちょうどインド滞在中でした。しかし、その日に私はひどい下痢に見舞われ、丸二晩ほどホテルの部屋から出られない状態でした。原因はおそらく、ジュースに入っていた氷だと思います。かき氷は避けていたのですが、ジュースの氷が当たったのかもしれません。体調が回復して何か食べようと外に出たのですが、なぜか街中の店が軒並み閉まっていました。後で知ったのですが、政治的な集会かストライキが行われていたようで、空腹と絶望を味わいました。
インドの旅の最後は、当時の「ボンベイ」(現在のムンバイ)でした。カルカッタからボンベイへは、電車で移動しました。その電車の中で、夏休みを利用してインドを旅しているという小学校の先生に出会いました。当時から40年ほど前の話ですが、「小学校の先生って、夏休み中にこんな風に海外旅行できるんだ」と、少し羨ましく思ったのを覚えています。今の日本の小学校の先生は「ブラックだ」と言われていますが、当時はもう少し時間の余裕があったのかもしれません。
ボンベイでは、日本から来て現地に住み着き、旅行客の日本人を騙して稼いでいるような日本人にも出会ってしまいました。疲れも相まって、騙されたり、高い値段をふっかけられたり、お腹を壊したりと、旅の終盤は「二度とインドには行きたくない」という気持ちになりつつありました。
しかし、フライトまで残り6時間という時、私はボンベイの港で一人、ぼーっと海を眺めていました。すると、隣にスーツを着た40歳くらいのインド人ビジネスマンらしき男性が座ってきて、「ハロー」と声をかけてきたのです。また騙されるのかと身構えましたが、彼はただ純粋に、珍しい日本人旅行者に興味を持ったようでした。
私が「日本から来たけど、インドでは色々な所に行って騙されるし、お金も取られるし、大変だったよ」と話すと、彼は静かに耳を傾け、「そうかそうか」と言いました。そして、「でもね、あなたが与えたものは、必ず返ってくるんだよ」と語り始めました。私が騙されたお金はいくらだったかと聞かれ、その金額を答えると、彼は自分の財布から現金を出し、「これをインド人としてお前に返す」と言って、私に差し出してくれたのです。
私は驚き、受け取れないと断りましたが、彼は「世界はそうやって回っているんだ。大丈夫だ。将来、お前が成長したら、インドに返してくれればいい。そうやって世界は繋がっているんだ」と言ってくれました。私はまだ、直接インドの人々にこの恩を返せたかどうかは分かりませんが、この出会いから、「いつかインドに何かを返さなければならない」という思いを抱いています。
そういう体験もあり、私にとっては「二度と行きたくない」でも「インドにはまる」のどちらでもなく、「いつか恩返ししよう」という変わったものになったのでした。
まとめ:旅からの学び
旅を重ねる中で、「計画通りではない偶発性が、大きな学びをもたらしてくれる」ということと、「失敗を含めた体験的な学びこそが、自分を成長させてくれる」ということを体験的に学ぶことができたと思っています。
社会に出れば、決められたことを着実にこなす能力も必要ですが、VUCA時代と言われる予測不能な現代においては、予期せぬ事態に直面した時に、自ら判断し、柔軟に対応する力がますます求められます。私の旅の経験は、まさにそうした力を培ってくれました。
子どもたちの学びについて考えると、子どもには 「計画型」の子もいれば、「行き当たりばったり型」の子もいます。どちらが良い悪いではなく、その子の個性を見極め、それぞれのスタイルに合った学びの機会を提供してあげることが大切だと感じています。
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